日々常々

ふつうのプログラマがあたりまえにしたいこと。

既存を正解とする減点ゲームへの違和感

オンラインミーティングとか、リモートワークとか、インターネットを介する話のメリットデメリットとかをみていると、「既存になるべく近づけよう」としているところに違和感を感じてる。

電子書籍もそうで、いかに紙をデジタルで表現するかに腐心しているように感じる。ページめくりのエフェクトなんて要らないのだけど、一時期ついてたりしたよね。紙っぽさにヒントはあるかもしれないけど、紙っぽくある必要はないはずなんだ。

差は減点対象となり、足切りとして機能している。減点ゲームをクリアしないと候補にもならない。そういう事実はある。けれど、足切りになりうる欠陥と、欠陥でないただの差異を混同している感じがする。

完全な代替なんてできないなんて認識は誰もがしているはずが、油断するとどこかに置いてきてしまいがち。ときに完全な代替ができることを宣言させられる圧力もあったりする。よくわからないけれど、そうでないと(それくらいでないと)進められないとかなんとか、言わせた側からはそんなよくわからない話も聞く。嘘をつかせる儀式に何の意味があるんだろう。

いくらデジタルにアナログっぽさを求めても、極限までアナログに近づけたデジタルはアナログの劣化コピーにしかならない。そんなことはわかると思うのだけど、それでも細かいところまでアナログっぽさを求めてる感じがする。

いくつかの理由づけはできなくはない。例えば「ただ変化を嫌っているだけ」とか。派生になるけれど「既存から変わるのを良しとしない人々を抵抗勢力と見立て、それを封殺するために既存を満たした上でメリットを強調したい」とか。後者は暴走品質を生み出す考え方の一つだと思う。

だからと言って妙案があるわけではない。 私は電子辞書と紙の辞書は両方使うけれど、使う場面は明らかに違う。仕事もリモートでいいものもあれば「これは対面だなぁ」と思って調整することも多々ある。漫画も紙、KindleiPhoneMacとまちまちで、今の所どれかに統一される気配はない。

きっと過渡期なんだろう。もしかしたら違うものが同じ名前で呼ばれているだけなのかもしれない。今「仕事」と言ってるものは、2種類(もしくはそれ以上)に分割され、仕事Aはリモートが当然で、仕事Bは対面が当然、みたいな感じになって、それらが「仕事」と一緒くたに呼ばれていたことなんて忘れられるのかもしれない。

とりあえずスクロールの漫画はとても良いと思う。あれは紙じゃ無理だ。できれば1話ごとに読み込みとかにせず、延々とスクロールさせてほしいもんだ。Kindleの合本も悪くないけれど、あれやるなら索引はちゃんとやってほしい。一昔前のゲームブックをデジタルで表現するなら読み進めながら文章が変化していく感じかなーと思ってたけど、よく考えたらそれってアドベンチャーゲームが済ませてるな。そこから少し捻ると、マニュアルとか技術書は利用者に応じて文章が変化していったりするといいよなーと思ったりする。読み飛ばすところもあるし、読む順番も人によって変わるのだから、その人の読みたい感じに構築されるようなのはどうかなーと。

ともかく、既存と比べて劣ってるところを何とかするのに注力するのはほどほどにしていいんじゃないかなー。コストに対して得られるものの上限は見えてるわけだし。対処するにしてもそのまま再現するんじゃなく、エッセンスを抽出して取り入れる方向で考えたいなと。